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歌舞伎と豊後系浄瑠璃
義太夫節が大阪を地盤として、如何にも大阪人好みの浄瑠璃を完成した頃、京都には京の生活に適合した上品な趣きをもつ一中節が創始された。この一中節は後に京都を去って江戸に移植されることになったが、それより早く、初代一中の門弟、宮古路豊後掾は享保19年(1734)江戸へ下り、歌舞伎に出演してまたたく間に江戸中の人気をさらった。その勢いには、それまで江戸浄瑠璃として着実な地盤をもっていた河東節などもまったく顔色なかった。そうしたはね返りもあってか、元文2年(1737)には町奉行所の処置として、風俗紊乱を理由に豊後節の全面的禁止が言い渡され、豊後掾は失意の気持ちをだいて上方へ戻り、間もなく没した。
しかし、豊後掾の高弟常磐津文字太夫は数年後江戸において常磐津節を創始し、同門の富士松薩摩掾も富士松節を開いた。このときの常磐津節は社会問題として取り上げられることもなく、歌舞伎芝居とも密接なつながりを持ちつつ、次第にその地歩を固めていった。
常盤津節は、その楽曲の傾向からみて硬軟取り混ぜた趣きをもち、為政者も豊後節の場合のように容易く指弾し得なかったのであろう。富士松節はその一門から鶴賀若狭掾を出し、また新内節として知られるようになった鶴賀新内を排出している。
豊後系浄瑠璃の特色を義太夫節と比較すれば、歌舞伎舞踊と結びついたため、より謡い物に近い音楽といえる。その点で江戸に定着した歌舞伎の劇用音楽として発生した江戸長唄と曲調や気分の違いはあっても、内容や機能的に似たような傾向を辿ったのである。

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義太夫節
ここで最も代表的な語り物としての義太夫節について述べておこう。後に筑後掾を名乗った竹本義太夫の人形浄瑠璃は、近松門左衛門と手を結ぶようになって、それまでの古い様式を捨てて、文学的にも音楽的にも新しい様式のものとなった。これによって京阪地方の観客から圧倒的な支持を受けるに至った。そのために、義太夫以前の浄瑠璃を古浄瑠璃と称して義太夫節以後の浄瑠璃と区別されるようになった。そして、義太夫節の重みが、流派名としての義太夫節を固定させ、古浄瑠璃時代のように、太夫各人が独立した流派を名のることはなくなった。
義太夫節が浄瑠璃の中での代表的な語り物であるという意味は、後に述べる豊後系の浄瑠璃「富本」や「清元」などと比較して、唄う要素が遥かに少なく、語る部分が非常に多いということである。もっとも、義太夫節も後世になるにつれ、三味線奏法の発達により初期の頃より一層音楽化されるようになったと言われる。

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三味線の登場と浄瑠璃の発展
三味線は永禄の頃(1560年代)琉球から渡来した蛇皮線(三線)を改造したものだという。撥を持って弾奏するのは、この楽器を最初手にした者が琵琶法師であったからである。メロディとリズムどちらも弾くことの出来る楽器を得たことは日本音楽の発展大きな力となった。いち早く注目したのは、人形を操ることで生計を立てていた傀儡子(くぐつし)達だった。

16世紀末の文禄年間(1592~96)西宮の夷舁(えびすかき)という人形まわしの集団が三味線を伴奏楽器にして人形操るという新機軸を考案した。その語りには享禄年間(1528~32)には完成していた浄瑠璃節がもちいられた。とにかく、傀儡子の職業であった操り人形と三味線とを得て、浄瑠璃は目ざましい発展をとげることになる。江戸時代に入って、新しい語り物として歓迎された浄瑠璃の太夫に杉山丹後掾と薩摩浄雲という人物がいた。この二人は京から江戸へ下って浄瑠璃を広めた。この二人の門下から多くの浄瑠璃太夫が輩出し、彼らの殆んどが新しい流派を名のった。その中で、現行の浄瑠璃に関係の深い流派を挙げるなら、杉山丹後の系統から江戸半太夫(半太夫節)、十寸見河東(河東節)、また、薩摩浄雲の系統からは薩摩外記太夫(外記節)、大薩摩主膳太夫(大薩摩節)、虎屋永閑(永閑節)、都太夫一中(一中節)、竹本筑後掾(義太夫節)などが出た。これらの中で、半太夫節は河東節の中に面影をとどめ、外記節もまた河東節の中にその姿を残している。大薩摩節は後に長唄に吸収され、永閑節は地唄の中に僅かに存在していると言える。また、一中節は現行の浄瑠璃として美しい曲調を今日まで伝えていると同時に、この一中から豊後節が生まれ、江戸歌舞伎とともに江戸の遊里において大きく花を開かせた。

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浄瑠璃の起こり
近世の音楽でも最も注目されなくてはならないのは浄瑠璃である。まず、浄瑠璃という仏教めいた名前の起こりから述べよう。この名称の中に浄瑠璃発生にからむ事柄が含まれている。発生に関する種々の言い伝えの中から、信頼できそうな個所を拾って辿ってみよう。室町時代に出来た物語を、一般に『御伽草子』と言うが、その一つとして知られている「浄瑠璃十二段草子」は「浄瑠璃物語」とも言われていて、これが浄瑠璃の最初の語り物であった。浄瑠璃の名称ももちろんここに由来する。「浄瑠璃物語」の主な筋は、三河国矢矧の里の長者で海道一の遊君が、三河の国の薬師十二神に祈って生まれた浄瑠璃御前という美女を、折りから陸奥へ下る途中の金売吉次の下人となった牛若丸が、この長者の家へ泊って見染め、和歌の徳による助けでその夜契りを交わし、翌日は陸奥へ出発していくというものである。ここには、浄瑠璃御前の出生から始まって、幾つか神仏の御利益が語られる。

長者と御前とかいう名前は、遊女や非人の流れをくむ人々の世界の話で、やはり神社仏閣に寄食していた徒輩によって作られた中世末期の物語であろう。したがって、浄瑠璃は中世の末に起こったもので、その初めは扇拍子で語られたようである。それが後になって三味線の伴奏に代えられたのである。

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