FC2ブログ
音楽 婚活
この大きな塊はマイナーのファッション雑誌《10から来ました Magazine》2011秋冬の刊
自我介绍

xiaonanguo20

Author:xiaonanguo20
欢迎来到FC2博客!


最新文章


最新留言


最新引用


月份存档


类别


搜索栏


RSS链接


链接

将此博客添加到链接


加为博客好友

和此人成为博客好友


外来音楽の輸入
日本の歴史を眺めると、様々な面で継体・欽明のヤマト政権あたりから、日本が独立国家らしい姿を見せてくる。中国との交渉や、朝鮮半島との密接な関係が目立ってくる。音楽の面でも、外来音楽が輸入されるようになったのはこの頃からだ。最初は朝鮮の音楽が渡来し、ついで中国の音楽が伝来した。それぞれ、新羅楽、高麗楽・百済楽・唐楽と呼ばれた。名高いのは、推古天皇の時代(7世紀)に百済から帰化した味麻之によって伝えられた伎楽である。8世紀の半ばに入ると、印度のバラモン僧によって林邑楽と仏教の声明が伝えられた。林邑楽というのは、今のヴェトナム南部地方の音楽である。平安時代初期には中国から渤海楽が伝来している。

これらの音楽は鎌倉時代に至って滅亡した伎楽を除いて、宮廷を中心に雅楽のかたちで伝承されてきた。雅楽の主体は管絃と打楽器による器楽合奏で、それに舞が伴った。これを舞を主体とするときには舞楽という。舞楽は、左方・右方の二種に分けられ、唐楽・林邑楽などを左方、三韓楽や渤海楽などは右方と称し、楽器編成や楽曲の形式も異なっている。平安時代に入ると、管絃合奏の規模を縮小し、外来の音楽に模した『平安朝の新作の歌曲』が作られるようになった。記録によるとそれらは北庭楽・承和楽・胡蝶・長慶子などと呼ばれ、いずれも左方に属した。雅楽はさらに日本固有の古楽である神楽・東遊・風俗・催馬楽なども含んでいる。神楽というのは、この場合宮中の御神楽をさし、東遊は、元来東国の風俗歌であったものが宮中に取り入れられたものである。風俗は言うまでもなく地方民謡としての存在であった。催馬楽もやはり民謡を源流にしたで、宮廷で歌われるようになって洗練されたものであった。これらは純歌曲で、雅楽の管絃による伴奏が付けられて、朗詠と共に雅楽のなかに数えられている。
尺八と筝曲
近世の音楽を代表するものは浄瑠璃であるが、浄瑠璃と共に近世に発展した尺八の曲と筝曲のことに触れておきたい。
尺八という楽器は、日本では奈良時代から唐楽の楽器として渡来しているのだが、今日、われわれが耳にする尺八の直接の祖先は、江戸時代初期におこった虚無僧尺八である。虚無僧は禅宗の一派とされる普化宗の徒で、尺八は、この宗派の法器とされた。しかし、この尺八も中世では、中間に節一つをもつ一尺一寸余の一節切と称された五穴の竹笛で、虚無僧の前身である薦僧が所持していたものであった。琴古流という流派は、黒田藩黒沢琴古が各地を行脚して集めた古曲・新曲を整調編曲し、元禄の頃に立てた流派である。「鹿の遠音」などの名曲がある。尺八楽二大流派のもう一つは、政府によって宗教の法器として禁止された尺八が大衆楽器として復興した明治中期になって、明暗流の名手中尾都山によって明治二十九年(1896年)に創始された都山流である。両派の特色を一口に言うなら、琴古流は古曲を得意とし、都山流は新傾向の曲に力を注いできたと言えよう。同派の得意とする筝・三弦・尺八による合奏を三曲合奏(または単に三曲)と言う。それ以外、今日“派”を名乗る尺八はずっと以降、大正・昭和初期にかけて形成されたものだ。

コトという楽器は、昔からキンノコト(琴)とソウノコト(筝)とに分けられてきた。ともに弦楽器で長い胴を持っている点は似ているが、絃ごとに柱を置いて調絃するのが筝で、琴にはそれがない。筝曲に用いられるコトは、十三絃の筝で俗筝と言われるものである。筝は奈良時代・平安時代においては管絃合奏に用いられるに過ぎなかった。しかし、次第に独奏楽器としてその適性を発揮していったらしい。

安土桃山時代に久留米の善導寺の僧賢順が、鎌倉時代から九州北部で行われていた筑紫楽と称する古筝曲を集めて整理し、これらを基調として組歌(筑紫詠)10曲を作り、「筑紫流」を創始した。この筝曲がやがて筑紫流筝曲となって、その筑紫流を学んだ八橋検校は調絃を律旋法に改め、組み唄十三曲を発表し、ここに現代筝曲に基礎が築かれたのである。それは恐らく江戸初期の寛文・延宝(16661-1681年)頃だろうと言われている。その後、筝曲の流派はいくつかに分かれたが、生田検校(1655~1715年)が京都において創始した生田流と、十八世紀の後半、江戸の山田検校が一派を立てた山田流とが筝曲界を二分する代表的な勢力となって今日に至っている。

より面白いブログはこちら:
toryburch.blog.jp/
atdiary.jp/kasamiya
naturere321.naturum.ne.jp/
x100.peps.jp/yokonasi
端唄・うた沢・小唄
長唄とともに一言触れておきたいのは、端唄・うた沢・小唄といった小曲のことである。江戸時代には、やはり現今の流行歌曲のような小曲が数多く唄われてきた。その中には都会に持ち込まれた地方民謡もあったが、そうでない端物の唄も多く作られて、人々の口にのぼっていた。それが端唄である。そうした端唄は上方でも江戸でも行われたが、今日、端唄といえば江戸端唄のことである。つまり、「紀伊の国」「さつまさ」「夕暮れ」「びんほつ」などといったものである。ところで、このような江戸端唄の愛好者であった旗本の隠居笹本笹丸たちは、江戸末期の安政年間に、それまでの端唄に品位を与え芸術的な歌曲として整えた「うた沢」というものを確立した。このうた沢はやがて二派に分かれ、寅右衛門派の歌沢と芝金派の哥沢として今日にまで及んでいる。一方、うた沢の発生に前後して生まれたものに江戸小唄がある。幕末から明治にかけて、新しく作曲された清元の浄瑠璃に数多く挿入された端唄は、早間で粋な曲調に改められるのが常であった。

ここに江戸小唄の発生がある。これが単に小唄と称され、一般に流行するようになったのは明治中期以後で、それ以来、次第に小唄人口は増加して、今日なお甚だしい盛況をみている。以上述べてきた、端唄・うた沢・小唄それぞれに特色があって一口で区別することはむずかしいが、端唄は特別な傾向や色あいを持たない素直さがあり、うた沢はゆるやかなテンポで重々しく、小唄は通人好みの渋さをもち、三味線の演奏にも撥を用いないといった特徴がある。

素晴らしいブログを皆さんにおすすめ:
momoai930.exblog.jp/
sawakosawako12.blogspot.jp/
fujiharanaoko55.p-kin.net/
lolynice22.eshizuoka.jp/
長唄
正確に言えば江戸長唄という。地唄の中に長歌(長唄)という種類があるので、それと区別するためである。現代において邦楽の中で一番多くの人に親しまれている音楽である。

江戸長唄は、もともと江戸歌舞伎の中で、舞踊の伴奏として生まれた芝居唄である。したがって、初期の長唄は歌本位の小曲に過ぎなかったが、これを習おうとする人が次第に増えてきて、劇場だけの音楽ではなくなり、江戸時代の末期頃からはお座敷長唄(演奏会用長唄)というものが次第に作られるようになって、独立した日本音楽としての地位を次第に高めていった。

十八世紀中頃の宝暦時代(1751-1764)に、作曲家として、また、唄方として名声のあった富士田吉次は一中節の出であったために、唄に浄瑠璃の手法を加えるようになった。また、文政九年(1826)には浄瑠璃である大薩摩節の家元としての権利も獲得した。このようにして、音楽としての内容を次第に充実させてきたのが長唄であった。

面白いブログを発見:
blog.niwablo.jp/niwasuki11/
blog.zige.jp/sakura001/
eling.ti-da.net/
blog.livedoor.jp/liaoxin2012/
古曲
豊後系浄瑠璃は以上挙げたものの他に、宮薗節・繁太夫節が今日残されている。宮薗節は宮古路豊後掾の門弟宮古路薗八が立てた流派で、発祥地の上方において一時栄えていたが、文化・文政の頃には衰えて、江戸に移された時には断片的な十曲が遺されたに過ぎなかった。現代では一中節・河東節・荻江節と並んで古曲と一口に称される。十曲中の代表曲は「鳥辺山」であるが、その古雅で美しい曲調は今でも人の心を魅惑するものを持っている。また、繁太夫節は地唄の中に繁太夫ものとして残っているだけである。

無駄にはならないブログはこちら:
raiyo.citylife-new.com/
kobe.areablog.jp/page.aspidx=1000051806
sunnnmui.blog.com/
blog.murablo.jp/ramuro/